園だより
2022.10.25
主体性を育む②~子どもは大人の見ていないところで大きくなる~
私は前回の記事で、主体性を育む要素として、
世間一般で言う「善し悪し」や「評価」ではなく、その子の育ちを真っすぐに見る、受け止める、信じる、親や先生に属する者としてではなく一人の人間として尊重する、親や先生が介入し過ぎない、思い通りにしようとしない、日々よく観察する、必要以上に手を出さない、次の一歩につながる問いかけをし続ける etc.
と書きました。
今回はその中で、「親や先生が介入し過ぎない、思い通りにしようとしない、必要以上に手を出さない」について書いてみようと思います。
幼稚園の意義…つまり集団生活の意義とは何か?と聞かれると、
「お友だちと力(心)を合わせて物事を成し遂げることを通して、生きる力の基礎を身につける」「人(いのち)は一人で生きているのではなく、例えそれが直接のつながりでないにせよ、支え合い協力し合って生きていることを体験から知る」などなどありますが、もちろんそれがすべてではなく、他にも意義があると考えています。
そのうちの一つ、私が特に大切にしていることは「先生(大人)と子どもが一対一の関係ではない」ということです。
「先生と複数人」の関係の中では、当然ながら先生はいつも自分だけを見ているわけではなく、自分を見たり他の子を見たりしているわけです。
その中で誰も自分を見ていない時間もあります…と聞くと「いつもちゃんと見てほしい」と思われるかも知れませんが、実は「見ていない時間もある」これが鍵ではないでしょうか。
語弊があるかも知れませんが、私は「手厚い保育」だけが正義ではなく、子どもにとっては「手厚くない」時間も必要と考えています。
自分に置き換えて考えてみると、四六時中誰かがそばで自分を見ている…という状況は息苦しいかもなぁ、そして、いつもその誰かを意識した動きをしてしまうかもなぁと、そんな気がします。
そういった状況では本音を言ったり、本当に自分がしたいことをしたり、自分らしさを発揮したりというのは難しいかも知れません。
乱暴な言い方にはなりますが、「ほっとかれている」状況は、ある意味では子どもが本領発揮する土台を作り、子どもの主体性を育むのではないかと思うのです。
もちろん、「手厚い」と「ほっとかれている」両方のバランスあって成立することを忘れてはなりませんが。
押し引きと言いますか。
大人が自分に対して100%ではない時間、隙間の時間が保証されている…これもまた幼稚園(学校)の意義であり、子どもにとっての成長のチャンスではないかと。
子どもって、信じて任せてみると、私たちが思っているよりも遥か空高く羽ばたくものなんですよね。
いつも近くで見ているのではなく、遠くから見守ってみたり、見ていないフリをしたり、あえて見ないようにしたり…そういった関わり方も子どもの主体性を育むと考えるのですが、いかがでしょう?
まさに、子どもは大人の見ていないところでこそ大きく成長するのだと思います。