園だより

2020.04.27

「ありがとう」と「あたりまえ」

以前、研修を受けた際に講師の先生が仰っていた「❝ありがとう❞の反対語は❝あたりまえ❞」
「先生いいこと言うなぁ」程度に聞いていたのですが、今、その言葉の重みを感じています。

例えばマスク。
ぽいぽいぽいぽいと捨てていました。
「使い捨て」だからと、一回使ったらぽい。
もうどこにも売っていないよ、貴重だよと言われてはじめて、焦る気持ちがわいてくる。
それは、「あって当たり前」だから。
無くなったらまた買えばいいもんね。
「有り難い」とは、当然思えない。

いのち。
「余命〇年」と聞いて、「かわいそう」だと言いながら、どこか他人事のように思ってしまう私。
そんな私だって、明日生きている保証なんてないのに。
今日一日を生きられる保証もない。
お釈迦さまは、「いのちは、息を吐いて、吸う、その間にも、終わるかも知れないもの」と仰っています。
明日も生きている、明日も会える。
それが当たり前。
だからついつい、「明日やろう」とか「その話、後で聞くわ」だなんて言ってしまう。
与えられたこのいのち、二つとない有り難いものであることになかなか気づけない。

昨日、コロナウイルス感染拡大以降の医療現場について、ドキュメンタリー番組が放映されていました。
コロナウイルスに感染しても病院で治してくれるから大丈夫…なんて軽く考えている自分に気づかされました。
医療現場の方が、ご自身のいのちをかけて治療にあたってくださっている姿。
大変な中でも、患者さんにいろいろと配慮しながら「大丈夫ですよー」と励ましの声掛けをされている姿。
コロナウイルスに恐怖を感じるのと同時に、自分はそんな風に、幼稚園で子どもたちと必死に向き合っているだろうか…と考えさせられました。

医療現場だけでなく、たくさんの方が、私の生活を支えてくださっている。
会ったこともない人たちが、私のいのちを支えてくださっている。
そう思うと、「当たり前」だとしか思えない自分がどうにも恥ずかしくて仕方がありませんでした。
こうして反省してみても、時間とともに「当たり前」に戻っていく自分がいるのです。

園で、子どもたちと一緒に「なもあみだぶつ」(お念仏と言います)と手を合わせます。
「なもあみだぶつ」は、呪文でもなければ、それを口にすることで何か幸せなことが起きるおまじないでもありません。
そう思って口にすると、ただの文字の羅列に過ぎません。

右手は「ありがとう」、左手は「ごめんなさい」、その二つを合わせると「私」になります。
「私が私である姿」が、手を合わせた姿なのです。
一日の生活を、手を合わせた姿で始まり、手を合わせた姿で終わるのは、
「ありがとう」と「ごめんなさい」の中で生かされている私ということを確認するため、決して忘れないためです。
つまり「なもあみだぶつ」とは、自分自身の人生を真っすぐに生きるための誓いなのです。

「なもあみだぶつ」という生き方は、「あたりまえ」が「ありがとう」に変わる生き方なのです。

なもあみだぶつ。
なもあみだぶつ。
なもあみだぶつ。

今週も、よろしくお願いします。

※写真は、各保育室の ののさま、ひよこ組さんの ののさま、大講堂の ののさま です。
子どもたちは毎日、手を合わせて「なもあみだぶつ」とお念仏します。

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