園だより
2024.07.16
いのち
少し前のことですが、カエルの「あずまさん」のお墓参りをしてくださった方がありました。
お花をお供えしてくださって…あぁ、何て温かいんだろう、そう思います。
心がポカポカします。
本当に、ありがとうございます。
お釈迦さまは、死後の世界ではなく「今」、つまり「死んだらどうなるか」ではなく「今この瞬間をどう生きるのか?」ということを私たちに教えてくださいます。
(仏教は、お釈迦さまが様々な場所で様々な人々に語られた物語である、とも言えるでしょう)
多くの方は、「死」と出会うと、「死」そのもの、または「死後の世界」を考えるのではないかと思います。
そして、「死」は「終わり」であると、そう考えるのではないでしょうか。
中にはその「死」の原因を明らかにしたいと考える方も、あるかも知れません。
私は、幼稚園では、「死」と出会ったときには「生」を伝えたい。
「死ぬ」ことを通して、「生きる」ことを伝えたい。
「なぜ死んだのか」ではなく、「どう生きたのか」、つまり共に過ごした思い出の話をしたいと思っています。
「死」と自分をつなげて、死の原因は自分にあるのではないかと考えることもあるでしょう。
自分のせいで、死んだのではないかと。
でも、「生きる」「死ぬ」って、そもそも私たちの力が及ばない領域のことだと思うのです。
「いのち」はコントロールできない。
(子どもだってそうです。子どもは真の意味ではコントロールできない。なぜなら、子どもはロボットでもAIでもなく「いのち」だからです)
「生きる」も「死ぬ」も、誰のせいでもありません。
私たちはただただ「いのち」を与えられ、そしてそそれぞれの「いのち」は与えられた時間をただただ全うする。
時間の長短で価値が決まることもない。
長くても短くても、すべてが「尊いいのち」です。
「死」を恐れず、「死」に気を取られず、「生きている」「生きていた」時間一瞬一瞬を大切にしたい。
そして、「死」を迎える時には敬意と感謝を持って手を合わせたい。
あずまさんに、すべてのいのちに、合掌。
一緒に過ごしてくれて、本当にありがとう。
生きるってしんどいことですけれど、それでも一歩一歩、与えられた大切な「いのち」を胸に、しっかりと歩んでいきましょう。
「蓮と鶏」金子みすゞ
泥のなかから 蓮が咲く。
それをするのは 蓮じゃない。
卵のなかから 鶏(とり)が出る。
それをするのは 鶏じゃない。
それに私は 気がついた。
それも私の せいじゃない。