園だより
2024.10.30
チーム
※写真のタイトルは「二人を見守る撮影者、子どもを見守る先生、そして先生を見守る子ども」
衆議院解散総選挙の報道であまり目立たないかも知れませんが、依然として不適切保育が発生し続けていますね。
皆さんご存知でしたか?
県内でも逮捕者が出ているようで、ショックを受けています。
いや、私がショックを受けているというのはどうでも良いのです。
「顔を殴られた」「両脇を抱えて揺さぶられた」とされている子どもさん、そしてその保護者さん、周りのお友だち…どんなに苦しくつらいお気持ちだったことでしょう。
とってもとっても怖かっただろうな…子どもたちは逃げたくてもその場から逃げられないんだもの。
深く深く傷ついたことでしょうね。
絶対に許せないですね。
そして私がこういったときに一番許せないのは、「加害者が悪いのか?」「園の管理体制が悪いのか?」という議論になってしまいがちなことです。
いやいや、待て。
被害に遭われた子どもさんの気持ちは?
保護者さんの気持ちは?
一緒の場所で過ごすお友だちの気持ちは?
何かを語る前にまず、そこに深く傷ついた人がいるということを考えましょうよ。
謝罪とか、園の事情とか、本人の事情とか、そんなことよりも。
もっと子どものことを見てくださいよ。
いやむしろ、子どものことだけを考えてくださいよ。
その子の視点に立ってくださいよ。
「教育」「保育」って、暴力を振るうことですか?
「躾け」って、暴力を振るうことですか?
拳だけじゃなく、言葉で殴ることだってできる。
何かが「できない」っていうのは、あなたに殴られるようなことなんですか?
違う。
どんな理由があったとしても、子どもが殴られることなんて決してあってはならない。
それが、子どもを守る乳幼児教育の施設であれば尚更…こうなったら、我々は一体誰を信用したら良いのか?
誰に頼ったら良いのか?
ここまでは、私の怒りです。
では、そういう私は不適切保育をしないのか。
子どもを殴らないのか。
園長先生は良い人だから、そんなことするはずないのか。
否。
私だってするでしょう。
今はしないで済んでいるだけで、する可能性は大いにあるのです。
真宗高田派の親鸞聖人が、お仲間に
「善い人だから人を殺さないのではなく、また悪い人だから人を殺すのではなく、その縁があれば、条件が揃えば、いつでも人を殺すことができる。それが私たち人間でしょう。今はたまたま、その縁に遇っていないだけで。その縁に遇えば、私も平気で人を殺すのですよ」といった意味のことを語ったそうです。
不適切保育の報道を聞いて「世の中にはひどい人間がいるもんだ。ひどい園があるもんだ。でも、うちの園はそんなこと起きないから大丈夫だ」と思い込んでしまうと、大切な事実を見落とすことになるでしょう。
それは「不適切保育はすべての園で起こり得る」ということです。
なぜでしょうか。
それは、教育の場において「あなたのために指導している」という認識が染み付いているからではないでしょうか。
「あなたのために指導してあげているんだから、言うことを聞いて当たり前」「子どもは先生(大人)の言うことを聞くべき」「あなたのワガママはあなたを堕落した人間にする。だから先生(大人)があなたを矯正し、良い方向へ導いてあげる」といったような認識が、まだ常識として思い込まれているという事実。
不思議ですよね。
最新型の教育・保育を学んだ人でさえも、いつの間にかそう考えるようになっているのですから。
この思い込みから、私たちはなかなか抜け出ることができないのです。
また「あなたを思って叱っている」だったはずが、いつの間にか「私の言うことを聞かないこの子に自尊心を傷つけられている。大人としての私の存在が脅かされている。だから何としてでもこの子に私の言うことを聞かせて、私の存在価値を示さねばならない」という感情に変わっているということ。
その先にあるのは…もう不適切保育しかないですよね。
もうやめませんか、そういう大人の身勝手を「教育」「保育」「指導」などと呼ぶのは。
「ティーチングからコーチングへ」なんて言われていた時期もありました。
一方向の指導ではなく、双方向の「対話」を大切にしましょうというニュアンスでしょうか。
もっと言えば、「見守る人」というニュアンスでオブザーバー、ウォッチャーなんて言葉も良いかも知れませんね。
でも。
言葉遊びも、もう良いでしょう。
いくら大人がかっこつけたところで、子どもたちが幸せになるわけではないのです。
私も、不適切保育をする一人なんだ。
高田幼稚園では、職員全員がこの自覚を持ちます。
その上で、じゃぁどうすれば不適切保育をせず、子どもたちと過ごせるのか。
おかしな言い方かも知れませんが、私はどうすれば、私から子どもを守れるのか。
それは「一対一にならないこと」だと考えています。
不適切保育は「一対一」の関係性の中で発生しやすいと考えます。
虐待も然りです。
いじめも然り。
嫉妬や嫌がらせも然り。
その後、例えば「複数対一」になることもありますが、始まりはいつも「一対一」です。
「“わたし”が、”あなた”を、何とかしなければならない」
「わたし」と「あなた」
この関係から抜け出ることができないときに、不適切保育等が発生すると考えています。
もっと言えば、「わたし」の自尊心を満たすために、「あなた」を利用するわけです。
もし、子どもを傷つけてしまいそうになったら、この関係に対する執着から離れてみることです。
例えば、他の先生に託すとか、他の誰かに任せる、助けを求めるなど。
クラスを超えて、学年も超えて、そもそも「担任」という執着からも離れて。
また、第三者から見て不適切保育のムードが感じられる場合は、その間に入り、双方のクッションとなること。
クッションとなり、ムードを和らげ、場の緊張感を解し、感情的になっている先生が我に返ることができるように働きかけること。
ここでも、チームワークが鍵となるのだと思います。
保育も子育ても、一人ではできません。
私たちには、同じ目的を持つ仲間、チームが必要なのです。
不適切保育が起きるとき、それはチームが機能していないということでしょう。
責め合うのではなく、理解し合い助け合えるチームこそが、「私」から子どもたちを守るのです。
高田幼稚園には、様々な性格の先生がいます。
お互いの悪いところを指摘し合うなんて、必要ないことでしょう。
そこも含めて、私は私なのですから。
お互いに助け合い、支え合い、どうか不適切保育から子どもたちを守ることができる園であるよう、これからもチームワークを大切にしていきたいと思います。
長くなりました。